リトアニア滞在2日目
2007年 07月 31日
二日目のこの日は夫と二人でビリニュス近郊の巨大ショッピングモール、アクロポリス探検から開始。
まずは朝10時ごろのビリニュス鉄道駅前の様子。ここから市内バス、トローリーバス、ミニバスを使ってビリニュス市内どこへでも移動可能。アクロポリスへはミニバスか市内バスで。
けど、アクロポリスは高い!激安を期待していったのに、かばん、靴、洋服などの値段はスウェーデンと同じかそれ以上!よって、たいした収穫も無くさっさと市内に戻ってくる。
そして、その後は旧市街散策。
駅から徒歩で7分くらいのところにある暁の門(Aušros vartai)。かつてビリニュスの旧市街を囲っていた城壁の4つあった門のうち現存する唯一の門。
暁の門をくぐった先はアウシュラ通り(Aušros gatvė)。ここはすでにビリニュス旧市街。
暁の門の上に収められている聖母マリアのイコン。地元のカトリック信者が日々祈りを捧げにくる。リトアニアではまだ宗教は一般の人の中に生きている。
ビリニュスの旧市街は第2次世界大戦までは東欧一の規模のユダヤ人コミュニティが存在していた。ヴォケチュ通り(Vokiečiu gatvė/ドイツ人通り)をはさんで東北側に小ゲットー、南西側に大ゲットーが存在していた。ここはかつて小ゲットーの存在していた地区。結局はナチスによってここの住民は一掃され、ビリニュスのユダヤ人コミュニティは事実上消滅した。
ユダヤ人通り(Žydų gatvė)と言う名の通り。かつてのゲットーの名残。でも、ユダヤ人はもういない。
この日の夕方に友人のインガとレストランで落ち合うことに。ヴォケチュ通りにあるリトアニア料理レストランで久々の再会。
インガと会ったレストランの名はジャマイチュ・スムクレ(Žemaičiu sumklė)。リトアニア低地の地域名ジャマイティスを冠するこのレストランではこの地方の郷土料理やリトアニア料理が楽しめる。因みに、sumkleとは郷土料理店の意味。
このレストランは地下にあり、入り口は狭いが洞穴にもぐりこむ様な階段を下りてゆくとそれぞれ趣の違った部屋がいくつかある。今回インガが予約してくれたテーブルは中世風の部屋。一番奥の席にはフランス人御一行様10名余りが楽しそうに騒がしく集い、全長50cmもあろうかという長いソーセージが運ばれてきた時は『オ~ララ~』と感嘆の声がいっせいにそっちから流れてきた。他にもドイツ人夫婦が私たちの隣で静かに肉料理を食していた。旅行客が多いね。
再会の図。
ビリニュス大学時代に知り合った彼女とはもう9年の付き合い。そして、私のフィンランド人の夫とは初対面。当時彼女はフィンランド語を専攻していたので、その後、欧州連合でフィンランドとタイアップしたリトアニアの開発プロジェクトに関わっていたが、現在はEUのドイツ関係のプロジェクトについている。当時の知人ですでにリトアニアを離れてしまった人がちらほらいる中、残ってリトアニアを変えようと実際行動している彼女はすごいと思う。
ジャマイチュ・スムクレでの夕食が終わりに近づいてきた頃、別の友人のシーマスから携帯に電話がかかる。そして、この後シーマス、インガ、夫と私の4人でシーマス行きつけのワインバーへ繰り出すこととなり…
結局ガーリックテイストのオリーブの実をつまみに白ワイン2本空ける。彼らに前回会ったのは2年半前。シーマスに最初に初めて会った時、彼はたったの13歳。でも、それから10年の年月が流れ、外資系企業で働く立派な青年に。しかもすでに既婚者。時がたつのは早いね。まあ、兎にも角にも一緒に酒を酌み交わせるようになってくれて私は嬉しいよ。
二日目はこれでお終い。
まずは朝10時ごろのビリニュス鉄道駅前の様子。ここから市内バス、トローリーバス、ミニバスを使ってビリニュス市内どこへでも移動可能。アクロポリスへはミニバスか市内バスで。
けど、アクロポリスは高い!激安を期待していったのに、かばん、靴、洋服などの値段はスウェーデンと同じかそれ以上!よって、たいした収穫も無くさっさと市内に戻ってくる。
そして、その後は旧市街散策。
駅から徒歩で7分くらいのところにある暁の門(Aušros vartai)。かつてビリニュスの旧市街を囲っていた城壁の4つあった門のうち現存する唯一の門。
暁の門をくぐった先はアウシュラ通り(Aušros gatvė)。ここはすでにビリニュス旧市街。
暁の門の上に収められている聖母マリアのイコン。地元のカトリック信者が日々祈りを捧げにくる。リトアニアではまだ宗教は一般の人の中に生きている。
ビリニュスの旧市街は第2次世界大戦までは東欧一の規模のユダヤ人コミュニティが存在していた。ヴォケチュ通り(Vokiečiu gatvė/ドイツ人通り)をはさんで東北側に小ゲットー、南西側に大ゲットーが存在していた。ここはかつて小ゲットーの存在していた地区。結局はナチスによってここの住民は一掃され、ビリニュスのユダヤ人コミュニティは事実上消滅した。
ユダヤ人通り(Žydų gatvė)と言う名の通り。かつてのゲットーの名残。でも、ユダヤ人はもういない。
この日の夕方に友人のインガとレストランで落ち合うことに。ヴォケチュ通りにあるリトアニア料理レストランで久々の再会。
インガと会ったレストランの名はジャマイチュ・スムクレ(Žemaičiu sumklė)。リトアニア低地の地域名ジャマイティスを冠するこのレストランではこの地方の郷土料理やリトアニア料理が楽しめる。因みに、sumkleとは郷土料理店の意味。
このレストランは地下にあり、入り口は狭いが洞穴にもぐりこむ様な階段を下りてゆくとそれぞれ趣の違った部屋がいくつかある。今回インガが予約してくれたテーブルは中世風の部屋。一番奥の席にはフランス人御一行様10名余りが楽しそうに騒がしく集い、全長50cmもあろうかという長いソーセージが運ばれてきた時は『オ~ララ~』と感嘆の声がいっせいにそっちから流れてきた。他にもドイツ人夫婦が私たちの隣で静かに肉料理を食していた。旅行客が多いね。
再会の図。
ビリニュス大学時代に知り合った彼女とはもう9年の付き合い。そして、私のフィンランド人の夫とは初対面。当時彼女はフィンランド語を専攻していたので、その後、欧州連合でフィンランドとタイアップしたリトアニアの開発プロジェクトに関わっていたが、現在はEUのドイツ関係のプロジェクトについている。当時の知人ですでにリトアニアを離れてしまった人がちらほらいる中、残ってリトアニアを変えようと実際行動している彼女はすごいと思う。
ジャマイチュ・スムクレでの夕食が終わりに近づいてきた頃、別の友人のシーマスから携帯に電話がかかる。そして、この後シーマス、インガ、夫と私の4人でシーマス行きつけのワインバーへ繰り出すこととなり…
結局ガーリックテイストのオリーブの実をつまみに白ワイン2本空ける。彼らに前回会ったのは2年半前。シーマスに最初に初めて会った時、彼はたったの13歳。でも、それから10年の年月が流れ、外資系企業で働く立派な青年に。しかもすでに既婚者。時がたつのは早いね。まあ、兎にも角にも一緒に酒を酌み交わせるようになってくれて私は嬉しいよ。
二日目はこれでお終い。
by traku7
| 2007-07-31 05:08
| リトアニア再訪 2007年度夏版